御由緒
- 御祭神は大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)。御神体は「クニタマさま」と呼ばれる亀形の自然石である。
- 起源 今から二千年の昔、第十代崇神(すじん)天皇の御代、国中に悪疫が広まり、帝(みかど)は倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)に祈願してようやく国家の災厄を鎮めることができた。
やがて皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)は父帝から東国の平定を命ぜられる。そして出立のとき、帝から御愛石(大切にしていた亀形の自然石)を授けられた。社伝によれば、豊城入彦命は陣中すなわち今の境内に松樹をお手植えになり、都から捧持してきた亀石を御霊代(みたましろ)として祭祀をおこなわれた。この石は倭大国魂神の御分霊と伝わり、「御神体のクニタマさま」として今も御本殿に奉安される。 - 大同2年(807)、坂上田村麿が東征凱旋の途次に造営舞楽を奏上。神社に伝わる社宝「翁面」はこの故事に由来するという。『上野国神名帳』に正五位上大国玉明神とある。近隣一帯は神社にちなんで「宮原荘みやはらのしょう」とよばれた。
- 建長5年(1253)倉賀野氏の始祖倉賀野三郎高俊が社殿を造営。以後、倉賀野氏の氏神として社殿の建替、修復が繰り返された。倉賀野氏は武蔵七党とよばれる武士団の一つ児玉党の余流で、烏川北崖上に要衝・倉賀野城を構えた。
- 至徳3年(1386)倉賀野三郎左衛門尉盛勝社殿建立、長禄2(1458)倉賀野三河守行政社殿建立、永禄2年(1559)金井淡路守社殿修復。
- 江戸時代は中山道倉賀野宿と近隣七ヶ郷の総鎮守として崇敬を集めた。旧社名は飯玉(いいだま)大明神。延享4年(1747)御本社造営。寛政元年(1789)御本社修復。現在の社殿は、元治2年(1865)3月に上棟式、翌慶応2年(1866)9月に遷宮式が行われたもの。
- 明治10年大国魂神社と改称、同43年に近隣の数社を合併して倉賀野神社と改称した。
- 氏子区域は高崎市の倉賀野町および宮原町である。(倉賀野町は昭和38年に旧群馬郡から高崎市に編入合併となり、このとき宮原町は旧倉賀野町から分離新設された)。今日も地域屈指の古社として参拝者が絶えない。
御神徳
- 御祭神の大国魂大神は疫病鎮護、医療看護に慈しみをくださる神様である。
この神はまた大国主神(おおくにぬしのかみ)の荒魂(あらみたま)といわれ、縁結び・夫婦和合の御神徳あらたかである。わが国には古来、同一の神について荒々しく神意さかんな面を荒魂、柔和な徳を備えた側面を和魂(にぎみたま)とたたえ、異なる神名で呼び分ける習わしがあった。 - 豊城入彦命の上毛野国(かみつけぬのくに)開闢以来二千年、御神威いよいよ盛んに群馬一円の民生安定と産業振興を御守護いただくものである。
境内社
- 冠稲荷(かんむりいなり)社・・・・・・・・五穀豊穣・商売繁盛の神
- 北向道祖神(きたむきどうそじん)社・・・・無病息災・健康長寿の神
- 天神社(てんじんしゃ)・・・・・・・・・・入試合格・諸芸上達の神
- 甲子大黒天(きのえねだいこくてん)社・・・金運の神、台所の神
文化財・御宝物 等
- 御本社御本殿・・・元治2年(1865)上棟、および付属造営文書類=市指定重文
- 算額・・・鈴木角右衛門門弟11名 慶応3年(1867)奉納=市指定重文
- 翁面・・・伝大同2年(807)坂上田村麿造営舞楽奏上
- 御神号扁額・・・享保19年(1734)金井淡路守子孫奉納
- 御神号扁額・・・安永8年(1779)上町須賀弥次郎奉納
- 神輿・・・天明5年(1785)脇本陣須賀庄兵衛妻圓奉納
- 雲龍図・・・天明7年(1787)狩野探雲画
- 太鼓・・・文化5年(1808)仲町中、上町旅籠屋中奉納