飯塚久敏と良寛

飯塚久敏と良寛

  • 飯塚久敏(久利とも)は倉賀野神社にゆかりの歌人であり国学者である。文化7年(1810)上野国、中山道の倉賀野宿(現高崎市)に生まれた。幕末の嘉永年間に始まる飯玉大明神(現倉賀野神社)の建て替え工事では、『御本殿造営寄附帳』に「皇国学士飯塚久利謹校」と記名し、寄附帳の序文を起草している。同神社神主高木出雲と親交が深かった。
    久敏は江戸の国学者橘守部に師事し、地元を離れ、主に甲信越地方に出て歌人や神職等と交友を深めた。
  • 「いまはむかしゑちごの国に良寛という禅師ありけり。」これは天保14年(1843)、久敏の著書『橘物語』の書き出しである。良寛の没後12年にして、最も早い時期に書かれた伝記物語として注目されるものである。
    『橘物語』原本は、分水町牧ヶ花の庄屋を勤めた名家、解良(けら)家の所蔵になる。解良家の十代叔問(しゅくもん)は良寛の当時の庇護者として知られる。久敏は、同家の十三代栄重とほぼ同年配であり、越後の栄重のもとをしばしば訪問していた。
  • また文久2年(1862)、久敏が選者をつとめる『玉籠(たまこもる)集』三巻には各地から三百余名の歌人が名を連ねた。地誌研究の分野でも『諏訪旧蹟史』など優れた業績を残している。
    広く甲信越に活躍しながら地元に資料が乏しく「埋もれた文人」であったが、近年に至りようやく顕彰の光を当てられるようになった。慶応元年(1865)没。故郷倉賀野、九品寺の墓地に眠る。

    倉賀野神社境内「飯塚久敏 顕彰碑」