歴史トピックス

倉賀野神社 歴史トピックス


「厄除雲龍図」と狩野探雲



厄除の御祈願については祈祷の御案内をご覧下さい。

  • 天明7年(1787)、狩野探雲(たんうん)63才のときの作画で、大板4枚をつなぐ縦3m×横2.3mの大作。御本社拝殿内。「八方睨み」で参拝者の身に付着した災厄をことごとく祓い除けることから「厄除雲龍(やくよけうんりゅう)」の名がある。
  • 作者の狩野法眼(ほうげん)探雲は甘楽郡野上村(現群馬県富岡市)の生まれで、江戸に出て狩野派に学び、江戸城西の丸普請の際には障壁画の製作に従事したという。晩年は七日市藩の御用絵師を勤め、世に「上野(こうずけ)探雲」と称された。文化9年(1812)、88才の長寿を全うした。

御社殿造営の古文書

「御普請仕様書」

  • 本殿は嘉永6年(1853)4月、高崎藩寺社奉行所あてに建替許可願いを提出、元治2年(1865)3月に上棟、完成になったもの。市指定重要文化財。
  • 「御普請仕様書」や「木割仕様帳」など造営に関わる古文書が多く現存し、ケヤキなどの用材の出所や建築部材の名称・寸法・数量、あるいは職人の賃金などを知ることができる。
  • 上の「御普請仕様書」写真では「彫物覚」として、向拝獅子や獏(ばく)、手挟(たばさみ)などの彫刻部材名が見える。

飯盛女の名を刻んだ石玉垣

飯盛女奉納の石玉垣

  • 石の玉垣(たまがき)に「金沢屋内 りつ ひろ きん」などと女性の名が刻まれている。築造年代は不明であるが、江戸時代の天保期頃ではないかと推測される。
  • もともとは中山道倉賀野宿の太鼓橋の近く、横町(よこまち)の冠稲荷(かんむりいなり)さまにあった玉垣だが、明治末の神社合併で御祭神が倉賀野神社に遷されたたため、この境内に移築されてきた。
  • 飯盛女(めしもりおんな)は旅籠屋一軒につき二人までと幕府の規制があったが、実際にはもっと多くの女性が遊女としておかれていたという。遠く越後などから奉公に出され、宿場の繁栄を陰で支えた女性たち。その厚く信仰した稲荷さまであった。

飯玉縁起

拝殿向背 飯玉縁起(いいだまえんぎ)彫刻

  • 光仁天皇の御代(770〜780)、群馬郡の地頭・群馬太夫満行には8人の子がいた。末子の八郎満胤は文武の道に優れ、帝から目代の職まで賜るようになる。これを妬んだ兄たちは八郎を夜討ちにして鳥啄池(とりばみのいけ)の岩屋に押し込めてしまう。
    八郎は憎しみの余りに大蛇と化し国中にまで生け贄を求めるようになる。やがて小幡権守(おばたごんのかみ)宗岡の家が贄番に当たる年となり、父と16才の娘海津姫は悲運に嘆き悲しむのであった。
  • 都から通りかかった奥州への勅使、宮内判官(くないほうがん)宗光はこれを聞き、海津姫とともに岩屋の奥へ入っていく。真っ赤な舌をのばし牙を立てて怒り狂う八郎大蛇と、一心に琴を弾き法の功徳を説く勅使宗光。
    すると八郎は琴の音に随喜の涙を流し、これまでの恨みを悔い改め、龍王に姿を変えた・・・・御本社拝殿向背(こうはい)に見上げる彫刻は「飯玉縁起」のこの場面を見事に描き出している。そして天空に舞い上がり「吾が名は飯玉である。今よりのちは神となって国中の民を守護せん。」と宣言し、群馬と緑埜(みどの)両郡境の烏川のあたりに飛び去り姿を消した。
  • これを見た倉賀野の人高木左衛門定国は勅使に上奏し、この地に「飯玉大明神」を建立したという。巻物の末尾には「大同二年丁亥九月十九日 豊原朝臣高木左衛門定国」とある。

     『飯玉縁起』一巻(部分)

  • この一話は神仏習合の色合いを濃く残したもので、14世紀半ば頃に編纂された縁起物語集『神道集』との関連性も指摘される。『飯玉縁起』一巻は、文書調査によれば、江戸前期の寛文12年(1672)には既に存在していたとされる伝来の社宝である。

飯塚久敏と良寛

  • 飯塚久敏(久利とも)は倉賀野神社にゆかりの歌人であり国学者である。文化7年(1810)上野国、中山道の倉賀野宿(現高崎市)に生まれた。幕末の嘉永年間に始まる飯玉大明神(現倉賀野神社)の建て替え工事では、『御本殿造営寄附帳』に「皇国学士飯塚久利謹校」と記名し、寄附帳の序文を起草している。同神社神主高木出雲と親交が深かった。
     久敏は江戸の国学者橘守部に師事し、地元を離れ、主に甲信越地方に出て歌人や神職等と交友を深めた。
  • 「いまはむかしゑちごの国に良寛という禅師ありけり。」これは天保14年(1843)、久敏の著書『橘物語』の書き出しである。良寛の没後12年にして、最も早い時期に書かれた伝記物語として注目されるものである。
     『橘物語』原本は、分水町牧ヶ花の庄屋を勤めた名家、解良(けら)家の所蔵になる。解良家の十代叔問(しゅくもん)は良寛の当時の庇護者として知られる。久敏は、同家の十三代栄重とほぼ同年配であり、越後の栄重のもとをしばしば訪問していた。
  • また文久2年(1862)、久敏が選者をつとめる『玉籠(たまこもる)集』三巻には各地から三百余名の歌人が名を連ねた。地誌研究の分野でも『諏訪旧蹟史』など優れた業績を残している。
     広く甲信越に活躍しながら地元に資料が乏しく「埋もれた文人」であったが、近年に至りようやく顕彰の光を当てられるようになった。慶応元年(1865)没。故郷倉賀野、九品寺の墓地に眠る。

    倉賀野神社境内「飯塚久敏 顕彰碑」

天明神輿

  • 神輿の屋根裏の組材に「天明五乙巳歳九月吉旦」「須賀七代庄兵衛吉抵妻圓」と刻まれている。須賀家は倉賀野宿の脇本陣の家で、七代庄兵衛は宿の年寄・名主役を勤め、天明3年に亡くなっている。その後に隠居した妻、お圓さんが天明5年(1785)に飯玉宮(現在の倉賀野神社)に奉納したものである。
  • 天明3年(1783)7月には上州(群馬)と信州(長野)両国境にある浅間山が大噴火している。つづいて「天明の飢饉」の始まる時代のことであった。
  • また墨書に「天明四歳甲辰十月造之」「細工人大阪北御堂前宮屋九郎兵衛義林代」と書かれている。神輿のつくりも軒四隅の蕨手(わらびて)が屋根野筋(のすじ)からではなく、下の垂木から出ており、関西型神輿の特徴を示しているといわれる。
    また、胴の上部で屋根を支える升組(ますぐみ)の下に、正面が梅、後ろが松、右が牡丹、左が菊、と彫り物が配されている。
  • 長く破損していて、昭和33年(1958)の「御造営七百年祭」以降は外に出ることがなかったが、平成2年の御大典を機に大修理がおこなわれ、神幸祭が復活した。